売上高1兆5,306億円。事業利益1,593億円。事業利益率10.4%。味の素のFY2025(2025年3月期)は、売上・事業利益ともに過去最高を更新した。しかし、この好業績の裏には、わずか数年前に味の素が直面した「管理会計の危機」がある。2020年3月期、味の素は製造設備の減損損失を中心に巨額の特別損失を計上した。規模を追い、売上高と営業利益の絶対額を追い続けた結果、投資効率が悪化し、資本コストを下回るリターンしか生まない資産が膨れ上がっていた。この危機を転機に、味の素は管理会計の「共通言語」を書き換えた。売上高や営業利益の絶対額ではなく、ROIC(Return on Invested Capital:投下資本利益率)を経営の中心指標に据えた。ROICとは、事業に投じた資本(自己資本+有利子負債)に対して、どれだけの利益を生んだかを示す指標だ。「いくら儲けたか」ではなく「投じたお金に対してどれだけ効率よく儲けたか」を測る。この資本効率の発想を、「投資家から預かったお金をいかに運用してリターンを上げていくか」という言葉で、本社から現場まで浸透させた。財務担当の水谷英一執行役常務がこの改革を率い、管理会計の「憲法」とも言えるガイドラインの策定、事業部長クラス40人弱の合宿での合意形成、政策保有株を含む約2,000億円の資産圧縮を実行した。本記事では、味の素の管理会計改革を「PL脳」からROIC経営への転換、ROICツリーによる現場への浸透、管理会計ガイドラインの策定、資産圧縮とポートフォリオの組み替えの4つの視点から解説する。味の素のROIC経営改革出典:https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00815/111900002/https://news.ajinomoto.co.jp/2025/05/2025_05_08_01.pdf1. 「PL脳」からの脱却 ─ なぜROICを選んだのか味の素のROIC経営改革は、「何の数字で経営するか」を変えることから始まった。改革以前の味の素は、多くの日本企業と同様に売上高と営業利益の絶対額を中心に経営を管理していた。事業部ごとに売上目標を設定し、その達成度を評価する。「規模を追う」経営だ。しかしこのPL偏重の管理には構造的な問題がある。売上が大きくても、そのために投じた資本が過大であれば、投資家から見た資本効率は低い。利益が出ていても、その利益を生むために使った工場や在庫が多すぎれば、同じ資本をもっと効率よく使える事業に投資した方がよい。日経ビジネスのインタビューで、改革を担った水谷英一執行役常務は「また新しい経営指標を本社が持ってきたのか」という現場の冷ややかな反応を振り返っている。しかし水谷氏はROICにこだわった。その理由は「投資家から預かったお金をいかに運用してリターンを上げていくか」の意識を事業現場と共有するためだ。PLの絶対額 vs ROIC:何が違うのか味の素がROEやROAではなくROICを選んだ理由も明確だ。ROEは自己資本ベースのため、事業ごとに自己資本を分けるのが難しい。ROAは総資産ベースで分母が広すぎる。ROICは「投下資本」を分母とするため、事業別に計算でき、WACC(資本コスト)と直接比較できる。どの事業が資本コストを上回るリターンを生んでいて、どの事業が上回っていないかが、ROICとWACCの比較で明確になる。この「事業別に資本効率を評価できる」点が、後述するポートフォリオの組み替え(セクション4)の判断基準になった。参照日経ビジネス「味の素を救った会計改革 ROIC浸透で資産2000億円圧縮」:https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00815/111900002/一橋大学 田村俊夫「ROIC経営の光と影」:https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/71519/0102002501.pdf2. ROICツリー ─ 経営指標を「現場のKPI」に翻訳する仕組みROICを全社の経営指標に据えただけでは、現場は動かない。「ROIC 17%を目指せ」と言われても、工場のラインリーダーや営業担当者が明日何をすればよいかは分からない。味の素がこの課題を解決するために導入したのが「ROICツリー」だ。味の素の有価証券報告書では、ROICツリーについて「ROICツリーをグループ全体に展開することで、現場主体の自律的なマネジメントに基づく中長期でのROIC改善を目指すとともに、重要なKPIが経営者・現場の双方から可視化される」と説明している。下図は味の素が2030ロードマップで公開している「無形資産とROICツリー」の概念図だ。味の素「中期ASV経営 2030ロードマップ」P22「無形資産とROICツリー」この図の最も重要なメッセージは、ROICの向上が単なる財務指標の改善ではなく、「人」と「文化」から始まるということだ。図の左側には「ASV実現プロセス」として従業員エンゲージメントの要素(志への共感、顧客志向、チャレンジの奨励等)が並び、それが無形資産投資を通じて「成長の加速」「挑戦する風土」「効率性の改善」という3つの推進力を生む。そしてこの3つの推進力が、右側の「収益性の向上」「資本効率性の向上」を経て、最終的にROICの向上と企業価値の向上につながる。有価証券報告書によれば、味の素は「事業・個社ROICツリー」として「各事業のアクションプランに応じた価値向上につながるKPIを事業特性に応じて独自に設定」している。全社一律のKPIを押し付けるのではなく、各事業が自分たちの事業特性に合ったKPIを設定し、そのKPIがROICツリーを通じて全社のROICにつながっている構造だ。このROICツリーの管理会計上の意義は、「経営の言語」と「現場の言語」を接続する点にある。経営陣は「ROICが資本コストを上回っているか」で判断する。現場は「運転資本の回転日数を何日短縮するか」「BP率(事業利益率)を何%改善するか」で行動する。そして「なぜその改善が必要なのか」は、ROICツリーを辿れば「企業価値の向上」まで一本の線でつながっている。ただし、ROICツリーを導入するだけでは、現場がROICを「自分ごと」として受け止めるとは限らない。味の素はこの課題を、次のセクションで述べる「管理会計ガイドライン」と「事業部長合宿」で乗り越えた。参照味の素「中期ASV経営 2030ロードマップ」P22:https://www.ajinomoto.co.jp/company/jp/ir/event/medium_term/main/012/teaserItems1/0/linkList/01/link/2030%20Roadmap%20Presentation(with%20script)_J.pdf味の素 有価証券報告書(2021年3月期):https://www.ajinomoto.co.jp/company/jp/ir/library/annual.html3. 管理会計ガイドライン ─ 管理会計の「憲法」を策定するROICを経営指標に据え、ROICツリーで現場KPIに落とし込む。しかし味の素の改革が他の日本企業と一線を画すのは、「管理会計ガイドライン」という社内の基本方針を明文化した点だ。日経ビジネスによれば、このガイドラインには「収益管理の基本方針を、部門別の短期利益積み上げの企業文化から脱却し、オーガニック成長と投下資本(時間、モノ、カネ)効率を重視する経営に転換することと定める」という方針が明記された。子会社の資本構成の考え方といった実務的な指針も盛り込まれている。管理会計ガイドラインの主な内容このガイドラインの策定プロセスも注目に値する。日経ビジネスによれば、策定に向けて当時の事業部長クラス40人弱を集めた合宿を実施した。トップダウンで「これがルールだ」と押し付けるのではなく、事業の現場を率いるリーダーたちを巻き込んでコンセンサスを取った。水谷氏はその効果を「子会社の資本構成の見直しにつながり、何百億円もの価値創出に結びついた」と語っている。管理会計ガイドラインが管理会計の「憲法」として機能する理由は、「何を追うか(ROIC)」だけでなく「何を追わないか(利益の絶対額)」を明記した点にある。多くの企業がROICを導入しても、結局は売上や利益の絶対額も同時に追い続ける。「ROICも大事だが、やはり売上高も」という曖昧な状態では、現場は従来の行動を変えない。味の素はさらに踏み込み、従来型の中期経営計画そのものを廃止した。2023年に発表された「2030ロードマップ」では、精緻な数値を作り込む従来型の中計に代えて、挑戦的な「ASV指標」を掲げ、長期視点のありたい姿からバックキャストする「中期ASV経営」へと移行している。「単年度視点の予想を3年分集計する」中計から、「大きな戦略ストーリーや課題の本質を追求したロードマップ」へ。ROICと成長率のレシオで事業を評価し、絶対額の積み上げではなく資本効率と成長の質で経営する方針に切り替えた。もう1つ注目すべきは、このガイドラインが40人の事業部長との合宿で合意形成されたという点だ。トップダウンで「規則」として押し付けるのではなく、事業の最前線にいるリーダーたちの納得を得た上で策定された。ガイドラインは「本社が作ったルール」ではなく「自分たちで合意したルール」になる。この合意形成のプロセス自体が、ROIC経営の浸透を加速させた。参照日経ビジネス「味の素を救った会計改革 ROIC浸透で資産2000億円圧縮」:https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00815/111900002/味の素「中期ASV経営 2030ロードマップ」:https://www.ajinomoto.co.jp/company/jp/ir/event/medium_term/main/012/teaserItems1/0/linkList/01/link/2030%20Roadmap%20Presentation(with%20script)_J.pdf4. 資産2,000億円圧縮 ─ ROICで「持たない経営」を実行するROICを「共通言語」にし、ROICツリーで現場に浸透させ、管理会計ガイドラインで制度化した。その結果として生まれたのが、約2,000億円の資産圧縮だ。日経ビジネスによれば、水谷氏は「過剰投資で固定資産や棚卸資産が増えれば、ROICは低下してしまう。投資リターンや在庫の回転率に目を光らせつつ、もしROICが資本コストを上回らなければ聖域なく事業の存在意義を問う」というコーポレートファイナンスの基本原則を、社内勉強会を通じて浸透させた。そして、資本コスト以下のリターンしか生まない政策保有株などの資産を約2,000億円圧縮した。ROIC経営による資産圧縮の流れ味の素の有価証券報告書では、「事業ポートフォリオ再編」の基準としてROICとオーガニック成長率の2軸を使っていることが明記されている。ROIC×成長率の4象限マトリクスで各事業を分類し、「ROICが高く成長率も高い」事業に資源を集中し、「ROICが低く成長率も低い」事業は撤退・売却を検討する。この4象限フレームワークは、経済産業省の「事業再編実務指針」でも推奨されている手法であり、味の素はその先駆的な実践企業だ。味の素の公式IR資料では、「2030ロードマップ」においてEBITDAマージンとWACCの数値目標をKPIとして設定し、「キャッシュ・フローの創出、資本コストの低減、成長率の向上」を企業価値向上の3本柱としている。この一連の改革の結果、味の素の時価総額は改革前と比較して大幅に上昇した。「PL脳」の時代には見えなかった「資本効率」という視点が、バランスシートのスリム化と成長投資の最適配分を同時に実現し、市場からの評価を大きく変えたと考えられる。参照日経ビジネス「味の素を救った会計改革 ROIC浸透で資産2000億円圧縮」:https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00815/111900002/味の素「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応について」:https://www.ajinomoto.co.jp/company/jp/ir/strategy/action/main/0/teaserItems1/0/linkList/0/link/Action%20to%20Implement%20Management_J.pdfまとめ ─ 経営の「言語」を変えれば、組織が変わる管理会計とは、組織が「何の数字で判断するか」を設計する技術だ。そしてその数字の選択は、組織の行動を根本から変える力を持つ。味の素の改革は、PLの絶対額からROICへと「経営の言語」を変えたことに始まる。ROICツリーで現場KPIに翻訳し、管理会計ガイドラインで制度化し、事業部長合宿で合意形成を取り、約2,000億円の資産を聖域なく圧縮した。従来型の中期経営計画を廃止し、「中期ASV経営」としてROICと成長率のレシオで事業を評価する方針に切り替えた。「売上を増やせ」「利益を増やせ」という言語で経営すれば、組織は規模を追う。「投下資本あたりのリターンを上げろ」という言語で経営すれば、組織は効率を追う。同じ事業でも、追う数字が変われば行動が変わり、結果が変わる。味の素の事例は、管理会計の「指標」は単なる計測ツールではなく、組織の行動原理を規定する「言語」であることを示していると考えられる。免責事項本記事は、味の素株式会社の決算短信、有価証券報告書、統合報告書、公式WEBサイト、公開インタビュー、学術論文等の公開情報を基に、同社の経営管理の考え方を整理・考察したものです。記載内容は一般的な情報提供および学習の補助を目的としており、味の素株式会社またはその関連会社による公式な見解・手続・社内文書を示すものではありません。正確性・完全性・最新性について保証するものではなく、本記事の情報に基づく意思決定・行動によって生じたいかなる損害についても責任を負いません。