「人件費を1割追加投入すると5年後にPBRが13.8%上がる」「研究開発費を1割増やすと10年超でPBRが8.2%上がる」「女性管理職比率を1割上げると7年後にPBRが2.4%上がる」。これらはエーザイが社内のデータをもとに統計的に導き出した、ESG活動と企業価値の相関を示す具体的な数式だ。CFOの柳良平氏(2022年6月退任、現エーザイシニアアドバイザー/早稲田大学大学院客員教授)のもと、エーザイは「知る限り世界で初めて」(柳氏談)、自社のESG関連データと企業価値(PBR)の相関を重回帰分析で実証して開示した。「人材投資は儲かるのか」「研究開発は儲かるのか」「ダイバーシティ推進は本当に企業価値を上げるのか」。これまで「直感」や「べき論」で語られてきた問いに、エーザイは1,088件のデータと統計分析で答えを示した。ここでPBR(株価純資産倍率)について簡単に整理しておきたい。PBRは、企業の株価がその純資産の何倍で評価されているかを示す指標だ。「株価÷1株あたり純資産」で計算され、市場が会計上の純資産にどれだけの「上乗せ価値」を認めているかを表す。PBRが1倍であれば「会計上の価値と市場評価が同じ」、PBRが2倍であれば「市場は会計上の価値の2倍の価値を認めている」ことを意味する。会計帳簿には現れない人材、ブランド、技術、組織といった「無形の資産」を市場がどう評価しているかが、PBRに表れる。エーザイは、このPBRを構造的に分解し、「見えない価値」を構成する要素を可視化した。本記事では、エーザイの管理会計をPBRの分解による「見えない資本」の可視化、1,088件のデータが示した「柳モデル」、可視化された数字を投資家との対話の言語に変える仕組みの3つの視点から解説する。出典:https://www.nttbizsol.jp/knowledge/expansion/202306191100000895.htmlhttps://www.eisai.co.jp/sustainability/index.htmlhttps://www.blackline.jp/blog/event/BTB2022_Eisai_Yanagi.html1. PBRを分解する ─ 「見えない資本」を可視化する管理会計エーザイの管理会計の革新は、PBRを構造的に分解することから始まった。一般的な財務分析では、PBRは「市場の期待」を示す総合指標として扱われる。PBR 1倍以下なら「市場から評価されていない」、PBR 2倍以上なら「市場から高く評価されている」という程度の解釈に留まることが多い。柳氏のアプローチはこれと根本的に異なる。PBRの構成要素を分解し、それぞれが何によって動くのかを定量化することを試みた。柳氏が着目したのは、国際統合報告評議会(IIRC)のフレームワークだ。IIRCは企業価値を生み出す「資本」を6つに分類している。財務資本、製造資本、知的資本、人的資本、社会・関係資本、自然資本だ。このうち会計上のバランスシートに計上されるのは主に財務資本と一部の製造資本のみ。残りの知的資本(特許、ノウハウ、ブランド)、人的資本(社員の能力、エンゲージメント)、社会・関係資本(顧客との関係、地域社会との関係)、自然資本(環境への配慮)は、会計帳簿には現れない。PBR=見える資本+見えない資本PBRが1倍を超える部分(つまり「市場が認めている会計上の価値以上の評価」)は、この「見えない4つの資本」が市場で評価されている結果だ、と柳氏は仮説を立てた。日経のESG経営報道では、エーザイのPBRが2倍を超える水準で推移している期間、その「上乗せ評価」が何に由来するのかを説明できなければ、投資家との対話は成り立たないという問題意識が背景にある。ここで管理会計上の重要な問いが生まれる。「見えない資本」が企業価値の重要な部分を占めているのなら、その資本を増やす投資(人材教育、研究開発、ESG活動)は、いつ、どれだけ企業価値に反映されるのか。この問いに答えるための取り組みが、次に説明する「柳モデル」だ。参照note(池田紀行氏)「エーザイの統合報告書がヤバいから読んだ方が良いぞ」(PwC対談記事の内容を引用):https://note.com/ikedanoriyuki/n/nad96454139e7エーザイ「サステナビリティ」公式ページ(価値創造レポート掲載):https://www.eisai.co.jp/sustainability/index.html2. 「柳モデル」─ 1,088件のデータで証明された価値創造の方程式「見えない資本」が企業価値を作っていることを認めても、それを定量的に証明するのは別の話だ。多くの企業がESGや人的資本の重要性を語るが、「で、それは具体的にいくらの企業価値を生むのか」に答えられる企業は少ない。柳氏は4年をかけて、この問いに統計学で答えた。エーザイ社内のESG関連KPIを88種類選び、それを平均12年間遡ってデータを集めた。総計1,088件のデータポイントを用い、各KPIがエーザイのPBRにどのような影響を与えているかを重回帰分析で検証した。柳モデルの主要な発見ここで重要なのは2つのポイントだ。第一に、統計的に有意な相関が確認されたこと。これは「ESG活動が企業価値を上げる気がする」という直感ではなく、データに基づいた実証研究だ。NTTビジネスソリューションズの解説によれば、柳氏は1,088件のデータから「統計的に有意なものを一部抜き出して、『エーザイの実証研究結果』にまとめた」。第二に、「遅延浸透効果」の発見だ。投資の効果は即座には現れない。人件費を増やしても、その効果が企業価値に反映されるまで5年かかる。研究開発投資の効果は10年以上先に現れる。これは管理会計の常識を覆す重要な示唆だ。一般的な経営管理は単年度のPLを中心に行われるが、ESG投資や人材投資は、単年度のPLでは効果が見えない。「今年の経費」として処理される投資が、5年後・10年後に「企業価値の上昇」として顕在化する。遅延浸透効果が経営判断に与える示唆短期のPL最適化だけを追えば、人件費・研究開発費・ESG活動への投資は「削減対象」になる。しかし柳モデルは、これらの投資が長期的には企業価値を増やす投資であることを定量的に示した。つまり、管理会計が「短期コスト」として認識しているものが、実は「長期投資」だったということだ。この発見は、エーザイだけのものではない。柳氏は同モデルを汎用化し、「柳モデル」として公表した。NTTビジネスソリューションズの記事によれば、柳モデルは数十社に採用されており、NEC、日清食品ホールディングス、JR東日本などが類似の分析結果を公表している。エーザイの管理会計手法が、日本企業の新しい標準になりつつある。参照NTTビジネスソリューションズ「ESG経営は本当に企業価値を上げるのか」:https://www.nttbizsol.jp/knowledge/expansion/202306191100000895.htmlエーザイ「サステナビリティ」公式ページ(価値創造レポート掲載):https://www.eisai.co.jp/sustainability/index.html3. 「見えざる価値」を投資家に伝える ─ 管理会計が、IRの言語になる柳モデルが画期的なのは、社内の経営判断だけでなく、投資家との対話の言語として機能している点だ。柳氏はPwC Japanとの対談(2021年)で、「当社のIR(投資家向け広報)チームは、国内外の投資家と一対一のミーティングを年間約700件行っています。私もCFOとして、毎年200件程度の個別対話を続けています」と語っている(その後の講演では「年間のべ700〜800件」とも述べている)。さらに「近年はESGにフォーカスした面談が増えており、この5年間でESG関連の面談比率が5%程度から30%以上にまで増えた」とも述べている。ESG関連の投資家面談で、柳氏は決算報告とは別に「ESGパッケージ」というスライドを用意する。このパッケージで使われるのが、まさに柳モデルの分析結果だ。「ESGは大事です」「人材を大切にしています」という抽象論ではなく、「当社のデータでは、人件費を1割増やすと5年後にPBRが13.8%上がります」という具体的な数字で投資家と対話する。従来のESG対話 vs エーザイのESG対話この「数値で対話する」アプローチが、PBR向上にも貢献している。Sustainable Brands Japanの記事によれば、エーザイのアプローチは「日本企業の市場価値を高める」モデルとして注目されている。柳氏自身、ヘルスケアセクターの「The Best CFO」に5度選ばれており、エーザイの取り組みは投資家コミュニティから高い評価を得てきた。ここに、エーザイが示した管理会計の進化形がある。これまでの管理会計は、社内の経営判断のためのツールだった。エーザイは、管理会計の数字を社内と社外(投資家)の共通言語として使う。可視化された数字が、社内では戦略立案の根拠になり、社外では企業価値の説明の根拠になる。同じデータが、内と外で同じ意味を持つ。これは、管理会計の役割を「社内管理」から「ステークホルダーとの価値共創の言語」へと拡張する試みだと考えられる。参照note(池田紀行氏)「エーザイの統合報告書がヤバいから読んだ方が良いぞ」(PwC対談記事の内容を引用):https://note.com/ikedanoriyuki/n/nad96454139e7Sustainable Brands Japan「見えない企業価値の可視化でESG投資を呼び込む」:https://www.sustainablebrands.jp/news/1201702まとめ ─ 「測れないから管理できない」を、「測る方法を作るから管理できる」へエーザイが示しているのは、管理会計の進化は「PLの精緻化」だけではない、ということだ。何を測るか、どこまで定量化するか、を拡張することでもある。これまで「ESG活動」「人材投資」「研究開発」は、「重要だが定量化が難しい」とされてきた。多くの企業がこれらの活動の価値を語ってきたが、それを統計的に証明した企業は少ない。エーザイは、1,088件のデータと重回帰分析で、これらの「見えない価値」を測れる対象に変えた。そして測れるようになった瞬間、それらは管理会計の対象になる。「いつ、いくら投資すれば、何年後にどれだけの企業価値が生まれるか」が分かれば、それは経営判断の根拠になる。「測れないから管理できない」と諦めていたものを、「測る方法を作るから管理できる」へ変える。エーザイの柳モデルは、この管理会計の拡張可能性を世界に示した事例だ。すべての企業が1,088件のデータを集めて重回帰分析を行う必要はない。しかし、「自社の経営判断に必要な数字は何か」「それは今、可視化されているか」を問い直すことは、どの企業にも当てはまる原則だと考えられる。免責事項本記事は、エーザイ株式会社の価値創造レポート、公式WEBサイト、公開インタビュー、学術論文、公開済み報道記事等の公開情報を基に、同社の経営管理の考え方を整理・考察したものです。記載内容は一般的な情報提供および学習の補助を目的としており、エーザイ株式会社またはその関連会社による公式な見解・手続・社内文書を示すものではありません。正確性・完全性・最新性について保証するものではなく、本記事の情報に基づく意思決定・行動によって生じたいかなる損害についても責任を負いません。