日本企業の多くには、財務に関わる2つの組織がある。1つは「経理」。日々の取引を正確に記録し、決算を締め、過去の実績を財務諸表にまとめる。もう1つは「経営企画」。中期経営計画を立て、全社戦略を描き、経営の方向性を設計する。しかし、この2つの間には空白がある。「過去の数字」と「未来の戦略」をつなぐ機能、すなわち、財務の視点から事業の意思決定をリアルタイムに支える機能だ。欧米のグローバル企業ではこれをFP&A(Financial Planning & Analysis:財務計画・分析)という専門職が担う。日本では長らく、経営企画や経理がこの役割を「片手間」で兼ねてきた。資生堂は、この空白に明確に「FP&A」という機能を置いた日本企業の1つだ。GLOBIS学び放題の解説でも、FP&Aを明示的に導入した日本企業として資生堂とNECが代表例に挙げられている。海外売上比率が約6割を占めるグローバルビューティーカンパニーとして、資生堂はなぜ「第三の財務機能」を必要としたのか。本記事では、資生堂のFP&Aを「戦略財務部」という組織が何をするのか、なぜ経理だけでは足りないのか、FP&Aと経営陣の距離、FP&Aと事業現場の対話、FP&A人材をどう育てるか、日本企業がFP&Aを導入するとはどういうことかの6つの視点から解説する。資生堂のFP&A出典:https://globis.jp/article/8362/https://www.onecareer.jp/articles/1880https://www.wwdjapan.com/articles/19263151. 「戦略財務部」とは何をする組織か ─ FP&Aの仕事を分解する資生堂のFP&A機能を担うのが「戦略財務部」だ。まず、この組織が具体的に何をしているのかを分解する。就活サイト・ワンキャリアのインタビューで、戦略財務部のリーダーを務めた廣藤綾子氏(外資系投資銀行のIBD出身、後にCFO・代表執行役に就任)は、その役割を次のように語っている。「財務の面で、経営陣の目となり耳となるのが戦略財務部のファイナンシャルコントローラーの役割です。私たちが集め、検証した数字を基に、CEOやCFOが経営判断の舵を取るのです」FP&Aの業務は、一般に次のような要素で構成される。FP&Aの主な業務これらは「経理」の決算業務とも、「経営企画」の戦略立案とも異なる。GLOBIS学び放題の解説によれば、これらの業務はすべて手段に過ぎず、FP&Aの使命は「意思決定を下すCEOにとって信頼に足るビジネスパートナーであること」だとされる。資生堂の戦略財務部は、まさにこの「ビジネスパートナー」として機能している。数字を集めて検証し、それを経営判断に直結する形で経営陣に届ける。廣藤氏の言葉を借りれば「経営陣の目となり耳となる」存在だ。参照ワンキャリア「売上2兆円を目指す資生堂、戦略財務の裏側」:https://www.onecareer.jp/articles/1880GLOBIS学び放題「資生堂やNECも設置するFP&Aとは」:https://globis.jp/article/8362/2. なぜ「経理」だけでは足りないのか ─ 過去会計と未来会計「予算管理や数字の分析なら、経理部門でもできるのではないか」。FP&Aを語るとき、必ず出てくる疑問だ。この問いに答えるには、経理とFP&Aの根本的な違いを理解する必要がある。経理の使命は、過去に起きたことを正確に記録することだ。日々の取引を仕訳し、月次・四半期・年次で決算を締め、財務諸表にまとめる。会計基準に則り、誰が見ても同じ結論になる「正しい数字」を作る。これは企業活動の根幹であり、極めて重要な機能だ。しかし、経理が扱うのは「すでに確定した過去」だ。決算書が示すのは「先月、何が起きたか」であり、「来月、何をすべきか」ではない。FP&Aの使命は、これから起きることを予測し、選択肢を示すことにある。経理(過去会計)vs FP&A(未来会計)具体的なイメージを示そう。ある事業の先月の売上が、予算を大きく下回ったとする。経理は「売上が予算比でいくら下振れた」という事実を正確に集計する。FP&Aはそこから先に進む。なぜ下振れたのか、どの製品・地域で起きたのかを分析し、原材料の輸入遅延なのか需要の構造変化なのかを突き止め、その要因が来月以降も続くと仮定したときの着地見込みを再計算する。そして、年初予算とのギャップを埋めるための施策を、複数の選択肢として経営陣に提示する。経理が「決算を締める」のに対し、FP&Aは「来期の打ち手を設計する」。グローバル企業にとって、意思決定のスピードと精度は競争力そのものだ。過去を正確に記録するだけでは、変化の速い市場で戦えない。資生堂が戦略財務部という形でFP&A機能を独立させたのは、「過去会計」と並んで「未来会計」を担う専門組織が必要だったからだ。参照GLOBIS学び放題「資生堂やNECも設置するFP&Aとは」:https://globis.jp/article/8362/内田洋行ITソリューションズ「経営者の右腕 FP&Aとは」:https://www.uchida-it.co.jp/column/20240820/3. 「報告」ではなく「相談」 ─ FP&Aと経営陣の距離FP&Aが「未来会計」を担うとしても、その分析が経営の意思決定に届かなければ意味がない。資生堂のFP&Aを特徴づける3つ目の要素は、FP&Aと経営陣の「距離の近さ」だ。一般的な日本企業の財務部門は、経営陣に対して実績を「報告する」立場にある。月次の数字をまとめ、資料を作り、経営会議で説明する。情報の流れは「財務部門→経営陣」の一方向だ。資生堂の戦略財務部は、この関係性が異なる。廣藤氏はワンキャリアのインタビューで、当時のCFOとの関係について「『今の資生堂のどこに課題があり、どう解決するのか』を日頃からディスカッションしています」と語り、さらに「ファイナンスに関する資料の構成を『報告』ではなく『相談』することもしばしばあります」と述べている。「報告」する財務 vs 「相談」する財務「報告」と「相談」の違いは小さく見えて、実は決定的だ。報告は意思決定が終わった後に行われる。相談は意思決定の前に行われる。FP&Aが「相談相手」であるということは、意思決定が下される、まさにその瞬間に立ち会っているということだ。この距離の近さがあるからこそ、FP&Aの分析は「参考資料」ではなく「判断の根拠」になる。資生堂の戦略財務部が経営陣の「目となり耳となる」と表現されるのは、財務部門が経営の意思決定プロセスの内側に組み込まれているからだ。参照ワンキャリア「売上2兆円を目指す資生堂、戦略財務の裏側」:https://www.onecareer.jp/articles/18804. 経営陣だけでなく「事業」とも対話する ─ ブランド単位のPLに伴走するFP&Aが向き合う相手は、経営陣だけではない。もう1つの重要な対話相手が、事業の現場、すなわちブランドや地域のチームだ。資生堂はSHISEIDO、クレ・ド・ポー ボーテ、NARS、エリクシールなど多数のブランドを抱える。そして同社はブランドマネジメント制を採用しており、各ブランドチームがあたかも独立した会社のように事業を運営している。資生堂のマーケターは、ワンキャリアのインタビューで「資生堂では、各ブランドチームがPLを管理するなど、1つの子会社のような形で事業の経営をしています」と語り、自身の業務として「売上やKPIの計画から実績管理、PL管理といった数字周りの仕事」を挙げている。ここにFP&Aの役割が生まれる。ブランドチームはマーケティングの専門家ではあっても、財務の専門家ではない。PLを組み、投資対効果を見極め、予算と実績のギャップを分析するには、ファイナンスの知見が要る。資生堂のマーケターも、商品開発やPLの設計にあたって関わる部門の1つとしてファイナンスがあると明言している。FP&Aは、ブランドという事業単位に伴走し、現場が「数字で経営する」のを支える存在だ。FP&Aが対話する2つの相手戦略財務部のリーダーだった廣藤氏の言葉は、この「事業との対話」の解像度を上げてくれる。廣藤氏はFP&Aの仕事について「大前提として、利益率の高いブランドラインや商品を正確に把握することが必要です」と述べ、さらに「常に『どこにギャップがあるのか』『どの地域・ブランドが不調なのか』『何がボトルネックか』を細かく追い、なるべく早く経営判断に結びつける」と語っている。「どの地域・ブランドが不調か」「何がボトルネックか」を細かく追うには、経営会議室の数字を眺めているだけでは不可能だ。実際にブランドや地域の現場に入り込み、事業の担当者と対話し、数字の裏側で何が起きているのかを掴む必要がある。FP&Aは、経営陣と事業現場の「あいだ」に立つ。経営の視点をブランドに伝え、ブランドの実態を経営に伝える。この双方向の翻訳こそが、FP&Aを「数字の集計係」と分かつ核心的な機能だ。資生堂ジャパンでは、かつての「経営計画部」を「コマーシャル・ファイナンス部」へ改称した経緯もある。「経営計画」という名称が示す全社的な計画づくりから、「コマーシャル(事業・商売)」に紐づくファイナンスへ。名称の変化そのものが、ファイナンス機能を事業の現場に近づけようとする方向性を映している。参照ワンキャリア「売上2兆円を目指す資生堂、戦略財務の裏側」:https://www.onecareer.jp/articles/1880ワンキャリア「資生堂のマーケティングは、もはや『事業経営』そのもの」:https://www.onecareer.jp/articles/1879週刊粧業オンライン「資生堂ジャパン、事業本部体制を再編」:https://www.syogyo.jp/news/2020/06/post_0276715. FP&A人材をどう育てるか ─ 「キャリアパスがない」という日本の壁FP&Aを「機能」として理解しても、それを担う「人材」がいなければ組織は動かない。そして、ここに日本企業の最大の壁がある。FP&Aという専門職のキャリアパスが、日本にはほとんど存在しないのだ。日本企業は伝統的に、特定分野の専門家(スペシャリスト)よりも、多様な職務をこなせる人材(ゼネラリスト)の育成を優先してきた。経理、人事、営業、企画と数年ごとにローテーションし、幅広い経験を積ませる。この仕組みのもとでは、「FP&Aのプロフェッショナル」という専門職を体系的に育てる発想が生まれにくい。資生堂のCFOの系譜は、この課題への1つの答えを示している。2021年から2024年までCFOを務めた横田貴之氏は、GE東芝シリコーンで日本・韓国のFP&Aの要職を経験し、ユニリーバを経て2019年に資生堂に参画した。FP&Aの実務を海外のグローバル企業で叩き込まれた人材だ。その後を継いだ廣藤綾子氏は、外資系投資銀行のIBD出身。2014年にインドネシア現地法人の社長、2019年に戦略財務部長、2022年にIR部長を歴任し、2024年7月にCFO、2025年1月に代表執行役CFOに就任している。資生堂のCFO人材に共通する特徴両者に共通するのは、ファイナンスを「専門職」として深めてきたキャリアだ。数年でローテーションする日本型のゼネラリスト育成とは対照的に、ファイナンスの専門性を軸足にキャリアを築いている。ただし、CFOクラスを外部から登用するだけでは、組織は持続しない。重要なのは、その下に続くFP&A人材を社内で育てる仕組みだ。資生堂はこの点で、HR(人事)部門とファイナンス部門の連携による人材育成に取り組んでいる。FP&Aは「会計の知識」だけでも「事業の知識」だけでも務まらない。両方を兼ね備え、かつ経営陣と対等に議論できる人材を、計画的に育てる必要がある。FP&Aの導入とは、組織図に部署を足すことではなく、「FP&Aという専門職のキャリアパスを社内に作ること」なのだ。参照WWD JAPAN「資生堂が魚谷雅彦会長CEOの退任で、廣藤綾子氏を代表執行役に選定」:https://www.wwdjapan.com/articles/1926315週刊粧業オンライン「資生堂、財務・IR・DE&Iに精通した廣藤綾子氏が代表執行役に就任」:https://www.syogyo.jp/news/2024/10/post_0395596. 日本企業がFP&Aを導入するということ ─ 資生堂の「旅」が示すもの資生堂はFP&Aを掲げる日本企業の代表例として語られる。しかし、その道のりは完成しているわけではない。FP&Aを導入するということは、単に「戦略財務部」という看板を掲げることではない。GLOBIS学び放題やAGSコンサルティングの解説が指摘するように、日本企業がFP&Aを機能させるには、いくつもの土台が必要になる。FP&Aを機能させるために必要な土台これらは一朝一夕には揃わない。資生堂は海外売上比率約6割のグローバル企業として、会計管理手法の統一やシステム整備に取り組み、HRと連携した人材育成を進めている。CFOの統合レポート2024でのメッセージでも、財務ガバナンスの強化や事業マネジメントの高度化が重点課題に挙げられている。FP&Aの定着は、財務組織だけの話ではなく、全社の経営管理の仕組みそのものを作り変える取り組みなのだ。ここに、資生堂の事例が日本企業全体に示す意味がある。多くの日本企業は、経理と経営企画は持っていても、その間をつなぐFP&Aの機能が弱い。「過去の数字」は分かるが、「未来の打ち手」を財務の言語で設計する専門組織がない。資生堂が示しているのは、この空白を埋める取り組みは、看板の掛け替えではなく、組織・人材・システム・文化を伴う変革であるということだ。すべての企業が資生堂のようにグローバル人材をCFOに迎えられるわけではない。しかし、「自社には『過去を記録する経理』と『未来を設計するファイナンス』の両方があるか」を問い直すことは、どの企業にも当てはまる視点だと考えられる。経理がしっかりしているだけでは、未来は設計できない。資生堂のFP&Aへの「旅」は、その問いを日本企業に投げかけている。参照GLOBIS学び放題「資生堂やNECも設置するFP&Aとは」:https://globis.jp/article/8362/AGSコンサルティング「"FP&A"とは?海外で活用されている管理会計の仕組みや導入への課題を解説」:https://www.agsc.co.jp/ags-media/fpa/資生堂 統合レポート2024 CFOメッセージ:https://corp.shiseido.com/report/jp/2024/message/cfo/まとめ ─ 「過去を記録する」だけでは、未来は設計できない資生堂のFP&Aが示しているのは、財務組織の役割が「過去の記録」から「未来の設計」へと拡張しているということだ。経理は、過去に起きたことを正確に記録する。これは企業の根幹であり、欠かせない。しかし、過去の数字をいくら正確に並べても、それだけでは「これから何をすべきか」は見えてこない。FP&Aは、その先を担う。予算を立て、予実を分析し、収益を予測し、投資を評価し、経営陣と「相談」しながら未来の打ち手を設計する。資生堂は、戦略財務部という形でこの機能を独立させ、グローバル経験を持つ人材をCFOに据え、HRと連携してFP&A人材の育成に取り組んできた。それでもなお「旅の途中」だ。FP&Aの導入は、組織図を書き換えるだけでは終わらない。会計基準、システム、人材のキャリアパス、そして「財務が経営の相談相手になる」という文化。これらが揃って初めて、FP&Aは機能する。経理という「過去を記録する力」に、FP&Aという「未来を設計する力」を加えられるか。資生堂の挑戦は、日本企業がこれから向き合う問いを、先取りして見せていると考えられる。免責事項本記事は、株式会社資生堂の統合報告書、公式WEBサイト、公開インタビュー、公開済み報道記事等の公開情報を基に、同社の経営管理の考え方を整理・考察したものです。記載内容は一般的な情報提供および学習の補助を目的としており、株式会社資生堂またはその関連会社による公式な見解・手続・社内文書を示すものではありません。正確性・完全性・最新性について保証するものではなく、本記事の情報に基づく意思決定・行動によって生じたいかなる損害についても責任を負いません。